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端(はた)さんのコラム創り手として、ここまで理解して頂けることはこの上ない幸せであります。 端さん、本当にありがとうございます。 『福永明子作「蒼天」に思うこと』 それは空の蒼から始まった。 全長5m程ある木製パネルに微かなグラデーションを纏わせ、全てを蒼に染めたと言う。 そこに立つ福永明子は永遠と無限とが戯れる力と共に、畏(おそれ)れすら感じたに違いない。 蒼を眼前に最初の一筆。 針の穴に糸を通すかの如く福永の全神経が筆先に伝わり蒼い地平に線が引かれる。 線は静かな呼吸と高まる心拍を背負いつつ増殖し桜の幹となり枝葉へと成長する。 それは地下を流れる水脈や脳内の神経細胞にも似て全ての生命を司る連鎖なのである。 蒼天に向かう幹と枝の先に福永は想像の中で架空の蕾を芽吹かせ開花の兆し(きざし)を確かめ、その後、一輪ずつ丁寧に桜の花を描く。 陰影を可能な限り抑え、淡い桜色に微かになぞられる鉤勒(こうろく、輪郭線)の奥ゆかしい静かな日本画伝統の技法には含蓄された福永の感性と意志、さらに桜の生命力や躍動感さえも感じる。 一体、この絵の中に桜の花はどのくらいあるのだろう。 何百、何千、何万?おそらく福永自身もその正確な数は語れないであろう。 無数に広がる花の群に永遠を感じ、満開に儚さを感じつつ福永の筆は留まることを知らず花を咲かす。 花は枝の無い空間にも浮遊し、その連続性は自動書記の様な見えない何かの力によっての行為なのかも知れない。 いつしか5mのパネルは枝の数をも上回る満開の桜で覆われ蒼天の空も隠されてゆく。 散りゆく花びらはそこには無く、一寸先の風に吹かれ舞い散る花びらを予感しつつも全ての花は満開なのだ。 絵の構図からすれば花吹雪が描かれてもおかしくはない。 切なく散る花びらを描かないのは生命の輪廻の中に精一杯咲く無常の今を描きたかったのであろう。 福永の言葉を借りるなら「今、私は生きている」と言う台詞に象徴される。 さて、私の主観かもしれないが、この約5mの大作に良い意味で音を感じない。 蒼天に咲く無数の桜の花、天に聳える幹、青より青い蒼天、この雄大な情景に音は無い。 正しくは無音を感じさせるという言い方が合っている。 西洋絵画では色彩における陰影の強さ、ペンティングナイフや筆によるタッチの痕跡、油絵具のマチエールからの物質感、等々で表層的にも生々しい躍動感によって音は無意識に感じ取れるのだが、多くの優れた日本画にも共通して、この福永の大作「蒼天」にも無音を思うのである。 だからと言って躍動感や力強さを感じない訳ではなく、むしろ西洋絵画のそれより内包された真の強さや力を感じてしまう。 音をも思わせない含蓄された表現には、もの静かの中に奥深いものや豊かなものをおのずと感じる日本人の奥ゆかしくも芯の通った閑寂(かんじゃく)の感性がそこにあるのだ。 無常の儚さを知り、それを美しいと感じる美意識が無音の情景を描かせている。 逆に、含蓄された無音の大作にオーケストラが奏でる壮大な音楽を想起するのは私だけではないだろう。 私の主観はここまでとして、では福永が描く蒼天とは何か、もちろん一般的に言うなら青い空である。 しかし先述した通り蒼天は桜で覆われ作品全体を見る限り「桜」と題してもおかしくはない。 では何故「蒼天」なのか。 蒼天の意味を辞書で紐解くと「蒼天」とは「天の造物主」という意味を持ち、これは、この世をつくりあげた大いなる存在のことであり、中国の古代思想では、天地やすべてのものを支配する造物主とされる。 また、ユダヤ教、キリスト教では「ヤハウェ」、仏教では「如来」を意味するとある。 おそらく、いや間違いなく福永はそのことを知っているだろう。 福永の蒼天とは青い空だけに留まらず次元を超えた宇宙、創造主なのである。 そこに、この世の桜を咲かせ人類も含めたありとあらゆる地上の儚さと無常を現しているのだ。 おそらく福永は自身の人生、自らが体験する喜怒哀楽、無常の現世に生きることの意味を主観的に絵の中の桜に見出しているのであろう。 福永は語る。「楽しいこと苦しいこともひっくるめて、その感情を味合うことが、この世に生まれた出でた意味・・・」だと。 作品「蒼天」には、白昼の月が浮かぶ。月は俯瞰し、もう一つの創造主として蒼天と桜を見守る。 その月こそが真の福永明子なのかも知れない。 端 聡(美術家/アートディレクター)
by acco_gluck
| 2021-04-19 21:24
| Painting
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